鈴木金七

愛知県新城市富永字上野の生まれにて、現在この地に生誕地を示す看板が建てられている。金七は金七郎とも言われているが、下の墓石には「鈴木金七重正」とある。奥平家の家臣。1575年(天正3)武田勝頼が長篠城を攻撃したときは、城を脱出して、家康のもとへ使者役を務めた。5月18日の夜に脱出したとあるので、同じように脱出して使者を務めた鳥居強右衛門が磔刑となった後のことである。「長篠日記」には鳥居強右衛門と二人で脱出したこととなっているが可能性は低い。金七は城に戻らず、家康と行動をともにした。のち帰農したが、慶長年間に領主松平忠明から200石を与えられた。さらにこの後家康の命により、水戸徳川頼房の家臣となった。

墓所

1.愛知県新城市作手田代