大須賀忠政

出羽守忠政は榊原康政の長男にて大須賀康高の養子となる。母が康高の娘ゆえ、外祖父のもとに養子にいったことになる。康高の死に伴い8才にして横須賀城主となる。家康の関東移封に伴い久留里(千葉県君津市)3万石を与えられた。関ヶ原の戦いの後、加増されて再び横須賀6万石となる。1607年(慶長12)9月11日京都伏見にて没。27才。法名「花馨院殿恭岩雙安居士」。 静岡県掛川市山崎の撰要寺は、手前が忠政・奥が大須賀康高の墓。和歌山県某所は、中央の大きな五輪塔が忠政墓。

 

墓所

1.群馬県館林市羽附町の善導寺

2.和歌山県某所

3.静岡県周智郡森町森の梅林寺

4.静岡県掛川市山崎の撰要寺