笠井満秀

南部宗秀の子。父は武田信虎・信玄に仕えていたが、乱行がもとで追放されてしまった。そのためか南部姓ではなく、「笠井」または「河西」と名乗った。寛政重修諸家譜では「河西」(読み方はカワニシ)となっている。肥後守。信玄・勝頼に仕えた。1575年(天正3)5月21日、長篠の戦いで討死。勝頼の馬が疲労したとき自らの馬を差し出して退却させ、身代わりとなって討死した。また、満秀を討取った滝川助義もそのときの傷がもとで翌日亡くなっている。長篠古戦場跡には、2人の相討の地に碑が建立されている。

 

墓所

1.静岡県某所

2.愛知県新城市出沢字的場田の龍泉寺