今川義元

1519年(永正16)氏親の3男(5男説もあり)として駿府城に生まれる。幼名を万菊丸といった。のち出家して雪斎の弟子となり、善徳寺に入った。このときは、承芳と名乗っていた。1526年(大永6)父が亡くなると、長男の兄氏輝が今川家を継いだ。1536年(天文5)氏輝が24才の若さで亡くなるが、氏輝に子供がいなかった。そのため今川家は、出家していた承芳(義元)が継いだ。このとき、異母兄の良真が不満を持ったため、これを討ち滅ぼした。(花倉の乱)その後、駿府・遠州の他、三河まで領土を拡げた。1554年(天文23)善徳寺にて、武田・北条と三者同盟を結んだ。東からの憂いをなくした義元は、京都を目指して上洛を開始する。しかし1560年(永禄3)5月19日、隣国尾張の桶狭間にて信長によって討取られてしまった。法名「天澤寺殿秀峯哲公大居士」。

墓所

1.愛知県豊川市牛久保町の大聖寺

2.愛知県西尾市駒場町の東向寺

3.愛知県名古屋市緑区桶狭間の桶狭間古戦場

4.愛知県豊明市栄町南館の桶狭間古戦場①

5.愛知県豊明市栄町南館の桶狭間古戦場②

6.静岡県某所

7.愛知県某所

8.愛知県某所