松平信康

1559年(永禄2)3月6日、家康の長男として生まれる。母は築山殿。幼少の頃は、母とともに駿府にて過ごした。桶狭間の戦いの後、鵜殿氏長・氏次との人質交換によって岡崎の家康のもとに戻る。織田信長との同盟強化として、信長の娘五徳姫を妻に迎える。しかし、母築山殿はこの結婚は喜ばなかったという。築山殿は今川義元の姪。義元を討った織田家を快く思わないのは当然であろう。信康との夫婦仲は悪くなかったらしく、2人の娘が生まれている。武勇に優れていたといい、長篠の戦いには家康とともに参戦。信長が、子供の代になったときに、織田・徳川の立場が逆転することを恐れたためか、武田内通他の罪状を押し付け、家康に殺すことを命じた。1579年(天正7)9月15日、遠州二俣城において切腹。享年21才。高野山奥の院の墓の写真は、結城秀康(家康次男)の石廟であるが、この石廟のなかに信康の墓碑がある。石廟は開くことは出来ず確認しにくいが、秋元茂陽氏「徳川将軍家墓碑総覧」に写真が掲載されている。

墓所

1.静岡県浜松市天竜区二俣町二俣の清瀧寺

2.静岡県静岡市清水区江尻東の江浄寺

3.愛知県岡崎市朝日町の若宮八幡宮

4.東京都新宿区若葉の西念寺

5.茨城県古河市中央町の隆岩寺

6.神奈川県小田原市風祭の万松院

7.和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山奥の院