近藤康用

石見守康用は、忠用の子にて父とともに今川義元に仕える。家康が今川から独立して三河を治めたのちは、菅沼定盈の進めにより、家康に属す。その際、康用とともに家康に属した菅沼忠久・鈴木重時の3人は、のちに「井伊谷の三人衆」と呼称された。居城の宇利城(愛知県新城市)を武田軍が不意に来襲したときに、息子の秀用とともにこれを防ぎ敗走させた。このとき、家康の一字を与えられ、今までの信用から康用にと改名した。1588年(天正16)3月12日没。72才。晩年は、度重なる戦のために歩行困難にて井伊谷に閑居していた。

墓所

1.静岡県浜松市北区引佐町井伊谷の龍潭寺

2.静岡県浜松市北区引佐町奥山の方広寺