戸田忠次

家康の古くからの家臣。1563年(永禄6)の三河一向一揆のときには、家康に離反して佐崎の寺に立て篭った。ただ忠次の場合は他のものと違い、家康の機嫌を損ねたため寺側についただけで、心からの離反ではなかったという。戦の途中に寺の外構えを焼いてでてきたので、家康の機嫌もなおり再び味方となる。その後、三方原の戦いや長篠の戦いなどにも参戦した。家康の関東移転にともない下田にて5千石を与えられる。1597年(慶長2)6月23日没。法名「英巖寺殿贈従四位下傑秀玄雄大居士」。

墓所

1.静岡県下田市四丁目の泰平寺

2.愛知県田原市大久保岩下の長興寺