吉川広家

元春の3男。1561年(永禄4)11月1日生まれ。父の死後、吉川家14万石を継ぐ。1600年(慶長5)関ヶ原の合戦のときには、主君毛利輝元が西軍の総大将となるも、東軍の家康に内通。毛利本家の所領安堵の条件下の行動であったが、戦後、毛利本家は所領没収。慌てた広家は、自分の褒章の領地を本家に譲ることで毛利家を救った。結果として、岩国3万石となる。毛利家臣からは「裏切り者」扱いされ苦しい立場であった。1625年(寛永2)9月21日没。

墓所

1.山口県岩国市横山の洞泉寺

2.京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺龍光院