岡部正綱

1542年(天文11)美濃守常慶の子として駿河に生まれる。父と同じく今川義元に仕える。義元が討死したのちも今川家に仕えていた。1568年(永禄11)12月武田信玄が駿河に侵略、氏真は掛川に落ち延びた。しかし、信玄が甲斐に引き上げると正綱は駿府城を奪回、氏真を迎え入れようとした。結局、氏真が駿府城に戻らないまま、1569年(永禄12)信玄に城を包囲された。正綱は、信玄の説得に応じ城を開き、武田家の家臣となった。信玄・勝頼の家臣として三方原の戦い・長篠の戦いに出陣。家康が駿河に進攻すると武田家を見限って家康の家臣となる。家康が人質として駿府にいたとき幼少のころから面識があり、歓迎された。その後は、家康の家臣として甲斐・駿河の人心を掌握することに功績があった。1583年(天正11)12月8日駿府にて死す。42才。法名「寶林院殿好雪道龐大居士」。下の静岡県藤枝市岡部町子持坂の万松院の墓の写真は、向かって右から岡部美濃守常慶・出羽守幸教・正綱の墓である。

墓所

1.静岡県藤枝市岡部町子持坂の万松院

2.静岡県静岡市葵区伝馬町の宝泰寺