久世広宣

広宣は、長宣の子。父が三河一向一揆のとき家康に敵対して討死。そのとき広宣はまだ2才にて、母に連れられ遠州に逃れた。16才のとき家康に赦されて大須賀康高に属し、数々の戦いにて手柄をたてる。大須賀康高没後は、松平忠政に属す。主な戦歴として、長久手・小田原の役・関ヶ原・大坂の陣に参戦。1626年(寛永3)3月19日没。66才。法名「真性院日詠」。静岡県掛川市西大渕の浄泉寺の写真、向かって左から長宣妻・長宣・広宣・広宣妻の順で墓が並ぶ。東京都杉並区永福の理性寺の墓石は、正面に広宣の娘「理性院殿」、側面に広宣「真性院日詠」と娘の夫大久保忠当「法真院日堯」の法名が刻まれている。東京都豊島区巣鴨の本妙寺の写真は、手前の大きい墓石が広宣墓。浄泉寺と本妙寺の墓は形状が似ているのは偶然だろうか。本妙寺は、久世家の墓石が多くあるが「久世広宣墓」があるのはあまり知られていない。

墓所

1.静岡県掛川市西大渕の浄泉寺

2.東京都豊島区巣鴨の本妙寺

3.東京都杉並区永福の理性寺