伊東長次

長久の子。丹後守。長實とも。1560年(永禄3)生まれ。秀吉に仕え、1578年(天正6)播磨国三木城攻めのとき手柄をたて信長より金の熨斗付の脇差を与えられた。1590年(天正18)の山中城攻めでは一番乗りの手柄をたてるなど、武勇に優れ、秀吉の七手組に任命された。1600年(慶長5年)6月下野国小山の家康のもとに三成の挙兵の第一報を知らたり、次男長昌を家康家臣としたりしているいことから、豊臣家臣ながら親家康派と思われる。大坂落城後は家康、秀忠に仕え大名となった。1629年(寛永6)2月17日没。法名「金龍寺殿雲山宗徳居士」。妻は神子田正治の娘。

墓所

1.東京都文京区向丘の高林寺

2.和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山奥之院